『ひとつでも多く単語覚える』は正しいのか?善なのか?【なぜ学ぶのか】

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子供の頃、感じた疑問に答えたい。
自分は、中学生の頃だろうか、先生から「単語を一つでも多く覚えなさい」と言われた。
「一つでも多く暗記するのが、頭いいことなのか?」と疑問に思った。
99覚えた人がバカ、100覚えた人がえらい、というのは正しいのか?

これは、「半分正しく、半分間違っている、」と思う。

単語暗記というのは、いわば量だ。
量と質、両方伴っていなければならない。

そもそも人間が学ぶのは、
自分の頭で考えて、幸福になるため」だ。
いろんな意見があると思うが、自分はそう考えている。
自分の頭で考えるためには、「他人の書いたものを読み、理解する」ことは欠かせない。

幸せの形は一人ひとりちがう、それも含めて自分で考えるためだ。

たとえば、マスメディア(インフルエンサー?)の情報をうのみにして、おどらされるのは、自分で考えているのとは違う。
マーケティングの手法で、売る側はあの手、この手と考える。
情報弱者はだまされてしまう。
そういう時、疑問をもち、「行動経済学」とか「マーケティング」の本を一冊でも読んでいれば、鵜呑みにされず、「ちょっとまてよ」となる。
「メディアリテラシー」という言葉も思い出す。


話は、変わるが、16世紀のドイツでは、掛け算まで学べたが、割り算はイタリアの大学まで行かないと教えてもらえなかったそうだ。
(『中学生の教科書』野崎昭弘 P.78)

今では、誰もが、九九や、割り算を小学校で学べる。
そして、割り算、掛け算を知らないと、その人は、大人になってだまされたり、苦労することは間違いない。
やはり「幸せから遠のく」といってよいのではないだろうか。
スマホだけでなく、パソコンもある程度できた方が、幸せだ。
遊びや趣味を堪能する上でも、パソコン、ITスキルはあったほうがよい。

社会が進展して、
16世紀のドイツより、社会が求める基礎的な能力水準が上がっているのだ。


話を戻すと、「一個でも多くの単語」は、半分正解、半分間違いと書いた。
たんなる丸暗記は、「質より量」のような勉強だと思う。
それに機械的な丸暗記は忘れやすい。

695語しか覚えていない人は、不合格。
1000語覚えた人は合格。
こんなのは、考えることでも教育でもなんでもない。
教師側が採点しやすいだけだ。

とはいえ、「考える」ことと、「暗記、覚える」のは対立でもないのだ。
ここが非常にデリケートだ。
数学で計算式を書く時に、基礎的な数と法則を覚えていないと、式を構成できない。
同様に文章を読んだり、書いたりするときに、文法と語彙がないと、そもそも文章は作れないのだ。

想像してみて欲しい。
名詞を10個しか知らない人の作る文章。
名詞だけでなく、動詞、副詞も含め、300個知っている人の文章は、どちらが豊かだろうか?複雑なことが書けるだろうか?
いうまでもなく300個知っている人だ。
絵の具のパレットが多い。

花の名前を3つしか知らない人がみる世界と、
花の名前を100知っている人のみる世界では、後者の方がより豊かだ。
Aの花とBの花の違いが分かり、世界がより細やかに観察できる。

書いたものを理解する上でも、3語しか知らない人は、300語で作られた文章は理解できない。
やはり語彙力がないと、文章も読めないのだ。

人間は言葉によって考えるので、語彙力も大事だ。

大学生になると、英語で文献を読む時間がある。
そこで、いちいちappleとはなにか?be動詞とはなにか?とやっていたららちがあかない。

ただ受験のための、2000語よりは、4000語といった質より量というゲームは、疑問がある。採点者の都合もあるのではないか。
それより、母語である日本語の語彙力の低下の方が問題だ。
母語の語彙力がベースにないと、英語の語彙も増えない。

結論として、語彙力は考えるためにも必要。正しい母語の語彙力も大事。
語彙が増えると世界を味わう、考える力にも貢献する、と自分は考える。

皆さんは、どう考えるだろうか?

PS:

先の、野崎昭弘さんは、数学教育について、以下のように書いている。


「学校での数学の教え方が早すぎるのではないか」
数学とは、抽象化して考える力と言ってよい
「私たちが食べ物に不自由しないのは、数学(を基礎とする科学技術)のおかげなのである」
「定理は、ごくやさしいものであっても、はかない人間の命とは違う、永遠の真理である」
「学校では生活に必要な算数、数学と考える楽しさを中心に教えればよい」
最近は、大学生まで考えようとせず、すぐに答えを暗記したがる傾向がある。

一読をおすすめしたい。『中学生の教科書』四谷ラウンド 出版 

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